考えること

「正しさハラスメント」と呼ばれるものについて

2016年12月29日

きのう、「正しさハラスメント」という言葉を見かけました。

不寛容社会とエンジニアの「正しさハラスメント」 – エモくありたい
http://emokuaritai.hatenablog.jp/entry/2016/12/28/115401

ふだん、経営をする上で「正しさ」にはわりとこだわっているので、半分エンジニア、半分経営者の視点で「正しさハラスメント」について思ったことを書き残しておこうと思います。

はじめに言っておきますが、本記事では「正しさハラスメント」という言葉について僕が個人的に思ったことを書き残しているだけで、上記で示した記事について何か意見したり、賛同や批判をしたりするものではありません。

きもちのはなし

この記事を書いているのも読んでいるのも人間なので、最初に気持ちの話から見てみましょう。

「正しさハラスメント」という言葉から、傷つく様子を感じました。ネットには強い言葉や過激な言い方が溢れています。現実世界で生き抜くのですら大変なのに、それに加えて四六時中ネットにつながって色々な言葉を浴びていれば、それに疲れたり傷つく人もたくさん出てきます。

高感度な感受性

さて、エンジニアリングの手法や設計、コードの書き方について指摘されたにもかかわらず、傷つくと感じる人もいます。

先日、会社でMBTIという自己診断テストのようなものを受けました。これは、レッテルを貼ったり優劣を決めるものではなく、人と人との違いを知ってお互いに尊重しあうことを目的に作られた「自己理解」のためのプログラムです。そこからわかってきたのは、「事実は事実」と認識する人もいれば、「言葉の裏」まで考え込んでしまう人もいるらしいということです。人それぞれ感受性のちがいがあって、コードの書き方について指摘されたものを、自分自身を批判されたと受け取る感受性を持っている人もいます。

社内でも、「お前を批判しているんじゃない、コードを批判しているんだ」という内容の会話はよく出てくるので、もし自分が否定されているように感じている人は、一旦はただ言葉通りに受け取って事実以上に受け取っていないか考えてみると、気持ちが落ち着くかもしれません。

感受性のマイノリティ

この感受性にも色々あるのですが、上記とはまた違った本質や矛盾した事象によく気がつく「感受性のマイノリティ」という人もいます。僕も「感受性のマイノリティ」なんじゃないかと思っています。わりと苦労してます。

この「感受性のマイノリティ」ですが、中島義道というひねくれた哲学者の本によく出てきます。何も考えずに言葉を発する人たちの矛盾やその抑圧で「生きにくさ」をいままで感じていた人は、中島義道の本を読むと肩の荷が下りるかもしれません。彼の本は、どれもだいたい同じことが書かれているので1冊か2冊読めば十分だと思います。

「思いやり」という暴力は、<対話>のない社会のたんなる改題なので同じ内容です。買うときには気をつけてください。

私が嫌いな10の言葉

「相手の気持ちを考えろよ! 人間はひとりで生きてるんじゃない。こんな大事なことは、おまえのためを思って言ってるんだ。依怙地にならないで素直になれよ。相手に一度頭を下げれば済むじゃないか! 弁解するな。おまえが言い訳すると、みんなが厭な気分になるぞ」。こんなもっともらしい言葉をのたまう大人が、吐気がするほど嫌いだ! 精神のマイノリティに放つ反日本人論。

この紹介文に思い当たるところがある人は、感受性のマイノリティにスペクトラムがあるかもしれません。「課題の分離」というキーワードでもググってみると楽になります。

善と善

僕が最近気をつけていることなのですが、両者が善の主張だということを前提に話をすすめるということです。

対立や意見の不一致が起こるとき、両者ともに「善」の考えが根底にあります。相手が主張している善のポイントを受け止めることと、受け止めたということを伝えるプロセスをスキップすると、「何も考えてない、何もわかってない」と感じてどんどんヘイトが進みます。両者一歩も譲れないときこそ、両者が納得する落とし所を設定する気持ちで対話を進めなければなりませんし、お互いが対等に話が進まないと納得感は得られないでしょう。

正しさよりも気持ちばかり優先される人を、僕は勝手に感情駆動と呼んでいますが、感情駆動の人には、気持ちと考えを受け止めたよと合図を送るプロセスが大切です。論理駆動の人には面倒くさく感じることかもしれません。

受け取り方

最終的に気持ちを落ち着かせたりポジティブに捉えるには、受け取り方次第です。言う側もあれこれ配慮したとしても、発信された言葉は最終的に受け取り側に委ねるしかないと思っています。言葉を受け止めるのもまた感受性と深く関わっています。この記事を読み手がどう受け取るかは、受け取り側がどうとでも解釈できます。

「正しさ(ハラスメント)」が必要なとき

やっと本題です。まず、この「ハラスメント」の言葉が強すぎるし、受け取り側にも色々解釈の仕方があると思うので、難しい言葉だなと思います。この正しさハラスメントは、正しさ押し付けが不快という意味に捉えましたがもっと違う捉え方もあると思います。

エンジニアリングにしろ経営にしろ、僕は正しさに価値があると信じている人間なので、積極的に正しさハラスメントをしている側です。この正しさハラスメントをする人がいないと、会社もプロダクトもどんどん腐っていってしまうからです。

水は低きに流れ、人もまた低きに流れる

「水の低きに就くが如し」(「孟子」告子上から)という言葉が語源ですが、攻殻機動隊のなかでもクゼヒデオがこの言葉を使っています。人は放っておくと楽な方に堕ちていくという意味で使われています。

とにかく人は放っておかれると低くなり、低俗になり下衆に成り下がっていきます。会社組織やプロダクト開発でも誰かが注意をしていないとあっという間です。きっと、低い方に流れるのを止めてあげる人が現れたときに、正しさハラスメントと捉えられる事象が言葉の行き違い、もしくは受け取り側の取り違いで生じているような気がします。

指摘するほうもたいてい面倒くさいのです。面倒くさいんだけど、言っておかないと低い方に行ってしまうから言うんですね。

開発プロセスの改善

たとえば、開発プロセスのなかにCI(継続的インテグレーション)を導入するだとか、脆弱性診断とレビューを挟むだとかしてプロダクトの品質を向上するために開発プロセスを改善しようと声を上げてくれた人がいて、多少言葉がきついからとこうした方がいいとアドバイスをくれている人を避けてしまうと、せっかくのプロダクト品質の向上のチャンスをみすみす逃すわけです。

多少言葉がきついくらいだったら、スルーしてプロセス改善に取り組むほうが得策です。当たり前ですが、本当に人格に話が及んだときにははっきり言うべきです。

公正への価値観

ゲヒルンでは、公正への価値観というのを非常に大切にしていて、会社の中で不公正な方向に進みそうになったときに、口を酸っぱくして聞く側の耳にタコができるくらいに、会社が価値をおいている公正さや正しさを繰り返し言っています。おそらく僕が一番、会社の公正さについて「正しさハラスメント」をしていると思います。こればっかりはハラスメントだと呼ばれてもいい、どんどん押し付けていく所存です。エンジニアリングと違って会社組織の話なので、また観点はぜんぜん変わってきますが、会社の価値観に合わない人は排除していく勢いです。

過去に、会社の価値観に一致しない取締役を排除したことがありますが、取締役の中に価値観が一致しない人がいると一気に不正が増大します。その取締役は所謂「クラッシャー上司」タイプの人でした。この人からは「だから石森さんは友達が少ないんでしょうねぇ」などと言われましたが、僕の友達の数と会社の価値観には何ら関係ないのでスルーでした。それよりも、ブラックな働き方を職員に押し付けたり、顧客へ事実と異なる説明をしていることが会社の価値観を侵害していると感じ、強く正しさハラスメントをしました。創業時に世話になったことを差し置いても、会社の価値観を守ることが最も大切でした。

ゲヒルンでは、「日本をもっと安全にする」というミッションのもと行動していて、「日本をもっと安全にするために」という冊子を職員に配りました。そのなかで、「当社の公正への価値観」という項目に、僕の正しさハラスメントが押し込まれています。一見当たり前のことが書かれているのですが、この当たり前を維持することが結構難しいのです。気になる人はぜひ職員採用にご応募くださいw

大切なことはたいてい面倒くさい

正しさハラスメントを趣味にしている人は限りなく少ないと思います。僕も、「あー言っておかないといけないよね……。また面倒くさいやつだと思われるんだろうなぁ。でも言わないといけない立場なんだよなぁ。」と思いながら、正しさハラスメントをしています。

宮﨑駿も「大切なことはたいてい面倒くさい」と言っています。面倒くさいと思ったら大切なことなんだと思うようにしています。

さいごに

正しさハラスメントという言葉をみて、ぱっと思い当たったことを書き留めてみました。物事は多面的です。この言葉について僕の受け取り方がぜんぜんトンチンカンかもしれません。しばらくして、ぜんぜん違ったと気づいたらまた書きます。

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